2022年6月4日午前2時39分、海洋冒険家の堀江謙一さんは愛艇「サントリーマーメイドIII号」で紀伊水道に設定されたゴールラインを超え、世界最高齢83歳での単独・無寄港の太平洋横断航海を成功させました。米国サンフランシスコ出港から69日目のことでした。
この艇は堀江さんがかつて密かに日本を発った“太平洋ひとりぼっち”の初代マーメイド号と同サイズの19ft(約5.83m)。これほど小さなヨットでの太平洋横断は、いわば未舗装の大陸を何万kmも軽自動車で征く(ゆく)ようなものといいます。今回の成功は60年前のチャレンジのとてつもなさを改めて印象づけるものでもありました。
今回の航海が60年前と大きく違う点は、堀江さん の“ひとりぼっち”が多くの人に見守られていたことです。
「堀江さんの航海をサポートするのは今回で3回目なんです」というのは、舶用機器事業部 営業企画部の高木淳部長です。古野電気はGPSのトラッキングシステムなど安全にかかわる機器の提供を行いました。
「お申し出をいただいたのは、2020年のことでした。堀江さんは、『昔と同じ小さいヨットで行きたい。風向風速計も、肌で感じられるから必要ない。最小限の装備にしたい』、というお考えでした。発電機は積まないので、太陽電池の限られた電力で動作し、もちろん堅牢でメンテナンスフリーでなくてはなりません。トラッキングシステムは当社ラインナップがないため、うちのベテラン開発者が以前に別の用途で手作りしたカスタム品をご提供することになりました」(高木、以下同)
船尾側の柵に本体を取り付け、デッキとキャビン内にはディスプレイを設置。GPS測位で得られた位置情報はイリジウム衛星電話のデータ通信を経由してサーバーに送信。送信インターバルの設定なども遠隔から変更可能なシステムです。ただ堀江さん自身はトラッキングシステム搭載には懐疑的であったようだと言います。
「位置は自分が分かっていればいい。余分なものはつけたくないというお考えでしたが、いろいろ検討され、やっぱりあったほうがみんながいいよね、とおっしゃるようになりました」
この種の航海はそれが冒険であるからこそ、万が一のことが起こる可能性を消すことはできません。トラッキングシステムで位置情報が分ったから助かったというケースは過去にもありますし、当然それが大きな目的のひとつです。しかしトラッキングシステムがあったからこそ、遭難したのが助けに行けない場所だと分かってしまうケースも、あり得るわけです。冒険のサポートには、そうした覚悟も必要でした。
「陸でお目にかかれば普通の元気なベテランヨットマンですし、『太平洋横断ったって、乗っかってるだけだから』なんて笑いながらおっしゃいます。ただ、私も船に乗るのでわかりますが、絶対そうじゃありませんよね(笑い)。船を信頼しスキルに自信を持っている、そこがほんとうにすごいと思います」
また、艇には風向きに対し舵を一定の角度に保つ「ウインドベーン」が装備されていました。GPSで船の動きを確認しつつ使うことで、キャビンで体を休める時間をより長く確保できたといいます。また旅の終盤には悪天候や黒潮大蛇行という大きなハードルもありました。それをサポートする地上のサポート部隊が常に艇の位置を把握できていたのも大きなメリットでした。
「当社で開催したお祝いイベントのトークショーで堀江さんは『ハワイを通過するときに、内緒で上陸しようかとも思ったが、トラッキングシステムがあるので寄れなかった』と、会場の笑いのネタにしてくださっていました。提供したシステムが航海に貢献でき、信頼もしていただいたのだなと嬉しくなりました」
航海日記にもそうした信頼をうかがわせる印象的な記述がありました。
『キャビン内の室内灯は本を読む時くらいしか点灯しません。24時間動いているGPSとコンパスの明かりで十分です』※
※出典:サントリーマーメイドⅢ号の航海「航海日記2022/04/04, 貿易風の北端を掴む」
https://www.suntorymermaid.com/sm3/2022/04/04/sm3_0404_3/
今いる場所と進むべき方向をしらせるGPSなどの舶用機器は、食料や資材がぎっしり詰まったひとりぼっちの生活の場――狭いキャビンを照らす常夜灯でもありました。堀江さんにとってこれが気持ちの上での支えになっていたことを感じさせる一節と言えるでしょう。
1964年石川県生まれ。産業技術や先端技術・宇宙開発についての取材経験をもとに、子供からシニアまでを対象に難解なテーマを面白く解きほぐして伝えることに情熱を燃やす。宇宙航空研究開発機構機関誌「JAXA's」編集委員(2009-2014)。著書・共著書に『あなたにもミエル化? ~世間のなりたちを工学の視点から~』(幻冬舎mc)、『私たちの「はやぶさ」その時管制室で、彼らは何を思い、どう動いたか』(毎日新聞社)、『東京大学第二工学部70周年記念誌 工学の曙を支えた技術者達』(東京大学生産技術研究所)ほか。
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