直径30cmのLPレコードを収めるほぼ正方形のアルバムジャケットは、デザイナーが腕を振るうカンバスであり、手にするファンにとっての楽しみでもありました。1968年にリリースされたビートルズ第10作目のアルバム“The Beatles”は、ジャケットが白一色であることから“The White Album”と愛称で呼ばれます。グループ名との混乱を避けるという理由はもちろんですが、ジャケットデザインが百花繚乱の時代に白だけというインパクトも相当なものだったからに違いありません。他にもビートルズの”Abby Road”が背景の横断歩道にちなんで”Zebra”とか、白色光を分光するプリズムをモチーフにしたピンク・フロイドの"The Dark Side of the Moon"(邦題『狂気』)が”Prism”と呼ばれたりもしています。
こうした愛称は、アルバムジャケットがアートワークとして愛でられていたアナログ盤時代の良習であったかも、と懐かしんでいたところ、デジタル時代ならではの理由でつけられたインパクトのある愛称に行き当たりました。
それが「セシウム明菜」です。
1993年にリリースされた中森明菜の『歌姫』をリマスタリングした『歌姫 ダブル・ディケイド』(2002)と『歌姫 スペシャルエディション』(2017)が、一部では「セシウム明菜」と呼ばれる特別なアルバムとなっているのだそうです。
音楽業界におけるリマスタリングとは、アナログ音源のデジタル化を再度行う、という意味です。日進月歩のデジタル技術を適用し、貴重なアナログ音源をより原音に忠実なデジタルデータにアップデートするという意味合いがあり、ライナーノーツの最後には小さな文字でこう記されています。
『セシウムクロック使用!!
セシウムクロックが、その精度の高さから世界の標準時を決定しています。我々、ユニバーサルミュージック技術陣は、セシウムクロック (高性能ビーム管) をデジタルオーディオに応用。 従来のCDの実に1,000万倍もの精度により、これまで以上に音楽表現に必要とされる、緻密かつ繊細なナチュラルサウンドを実現しました。』
ここで説明されている、時計の精度向上が音質向上につながるという話を、もう少し解きほぐしてみましょう。
アナログ音源のデジタル化は、一般的にはA/D変換と呼ばれる信号変換のことです。連続するアナログ信号を一定間隔で区切り(標本化)、ひと区切りの量を離散的な値に置き換える(量子化)ものです。
模式化してみるなら、音声信号の波形を方眼紙に描く操作とでもいえるでしょうか。横軸が時間で、信号の大きさを縦軸にとった方眼用紙に信号波形を描き、格子と交差する点の座標をひとつひとつ拾っていく作業であるといえます。コンパクトディスクの規格では標本化周波数が44.1kHz、量子化ビット数は16bit。つまり、信号を4万4100分の1秒ごとに、16bit=3万2768の階級で表現し記録します。原理的に、方眼の格子が細かく、そのサイズのばらつきが小さいほど、信号波形を正確に写し撮れるようになります。
「セシウム明菜」では、リマスタリング時にセシウム原子時計を基準クロックとして使うことで、時刻の安定性、すなわちグラフの横軸のサイズのばらつきを極小に保てているからこそ高音質なのだ、とアピールしています。ある層のオーディオファンに非常に響いたからこそ、このような愛称が通用するようになったのでしょう。ハイエンド・オーディオに憧れた私も、その気持ちは少しわかります。
さて原子時計の原振となる原子番号55、元素記号Csで表されるセシウムは、周期表ではリチウムやナトリウムなどと同列のアルカリ金属に分類されます。水に放り込んだだけで爆発的に燃焼を起こすなど、非常に高い反応性を有しますが、それには最外殻にある一つだけの電子が関わっています。この電子と原子核の相互作用によってもたらされる、原子そのもののエネルギー状態の変化を利用するのが、原子時計です。
その原理をギターにたとえて説明してみましょう。ギターを叩くと胴が鳴り、つられて弦も振動します。原子時計で使われるセシウムは、9,192,631,770Hzで鳴る“弦”を持っています。原子時計に使われる元素としては他にRb(ルビジウム)、H(水素)、Sr(ストロンチウム)などがありますが、それぞれに固有の“音色”を持っています。またこのセシウム原子にも他の音色の弦はありますが、時間の定義において使われるのがこの弦であるため、原子時計でもそれだけを使います。
原子時計においては、ギターのチューニングで使う音叉の役割を、原子そのものが果たします。9.1GHz近辺のマイクロ波を原子に照射し、共鳴が起こった状態を維持することで、正確な9,192,631,770Hzが得られます。その振動を91億9263万1770回カウントすることで、正確な1秒も得られます。
現実の原子時計では原子を極低温に維持したり、磁場を遮蔽するためなどに、大掛かりな設備が必要になります。ギターのたとえでいうと、ギターに余計な力が加わったり動き回ったり、ギター同士がぶつかり合ったりすると、求める音色を聞きとるのが困難になります。そこで静置してそーっと爪弾き、その音に耳を澄ますことのできる無響室のような設備が必要になる――、ということにでもなるでしょうか。
ちなみに原子時計に使われるセシウムの質量数(原子番号=陽子数と中性子数の和)は133です。中性子数だけが異なる同位体のうち、セシウム134やセシウム137は、放射性物質の拡散の指標となることから、不幸にもネガティブなイメージで語られてしまっています。もちろんセシウム自体に罪はなく、原子時計のセシウム133にも放射能はありません。したがって原子時計で被曝したりすることもあり得ませんのでご心配なく。
さて「セシウム明菜」ですが、その高音質を堪能するには、再生時にも高性能の基準クロックが必要です。リマスタリング(A/D変換)と再生(D/A変換)の両方でハイレベルな基準クロックを使わないと、原音に忠実とは言えません。
同アルバムを凄まじい褒めっぷりで紹介する愛好家のブログを拝見すると、やはりルビジウムクロックをお使いでした。「セシウム明菜」の愛称が、それほど広まってはいなくとも一部で深く浸透しているのは、それを味わえるのがある意味で突き抜けたオーディオファンに限られるから、という理由もあるかもしれません。
ちなみに昨今では、セシウム原子時計やルビジウム原子時計より安価なGNSSの基準クロックが入手できます。GNSS衛星や管制局の原子時計に同期されており、正確さに遜色はありません。いずれ伝説のピアニストの名演が「グロナス◯◯◯」と呼ばれたり、オペラ公演の豪華版に「ガリレオ◯◯◯◯」と別名がついたり、大物演歌歌手の伝説のリサイタルに「みちびき◯◯◯◯」と愛称がついたりは、あんまりしないとは思います。が、クロックの精度が上がることでもたらされるメリットの一つに「オーディオ品質の向上」もあり得ることも、知っておいていただければと思います。
1964年石川県生まれ。産業技術や先端技術・宇宙開発についての取材経験をもとに、子供からシニアまでを対象に難解なテーマを面白く解きほぐして伝えることに情熱を燃やす。宇宙航空研究開発機構機関誌「JAXA's」編集委員(2009-2014)。著書・共著書に『あなたにもミエル化? ~世間のなりたちを工学の視点から~』(幻冬舎mc)、『私たちの「はやぶさ」その時管制室で、彼らは何を思い、どう動いたか』(毎日新聞社)、『東京大学第二工学部70周年記念誌 工学の曙を支えた技術者達』(東京大学生産技術研究所)ほか。
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