親しい相手なら、電話口の声の調子からでも、健康状態を推し量ることができるでしょう。深宇宙(deep space、月以遠を意味する)を旅する探査機の場合も、発する電波のトーンから機体の状態をモニターすることができます。
2010年と2015年の12月の同じ日に、私は日本の金星探査機「あかつき」の重要イベント取材のため、JAXA宇宙科学研究所(神奈川県相模原市)に詰めていました。この日は、「あかつき」と金星の軌道が交差する日でした。
2010年5月に打ち上げられた「あかつき」はその年の12月7日、惑星間軌道を進む約半年の旅を経て、はじめて金星に接近しました。予定では大きく減速して金星の周回軌道に入る計画で、そのためには適切なタイミングで適切な方向に主エンジンを力強く噴射する必要がありました。映画でいうなら、走行中の新幹線から山手線に飛び移る、一発勝負のアクションシーンのような緊張の瞬間です。研究所には多くの報道陣や宇宙ファンが押し寄せていました。
しかし、減速のための噴射中に「あかつき」は主エンジンを故障喪失。じゅうぶんに速度を落とすことができず、金星を通りすぎてしまいました。そのような詳細が判明したのも翌日以降のこと。探査機の状況が分からないまま、報道陣は記者席で長い時間を過ごすことになりました。
深宇宙で探査機が主エンジンを失えば、どう考えてもそこでゲームオーバーです。しかし運用チームは復活の呪文をとなえました。太陽を周回する人工惑星として5年を過ごしながらふたたび金星に接近する軌道を見い出し、再度の接近時には当初計画になかったイレギュラーな方法で減速を行うことにしたのです。
そのイレギュラーな方法とは、出力が主エンジンの1/20しかない「姿勢制御用スラスタ」を4機束ね、設計想定値を超える長時間噴射を行うというものでした。この奥の手を使うことで、2015年12月7日、金星の周回軌道投入は無事成功。「宇宙開発史でほぼ前例のないリカバリ」と大きく報道され、ご記憶の方もいらっしゃると思います。
ところでこうした一発勝負の重要イベントを、探査機の関係者は「クリティカル運用」と呼んでいます。その際、刻々と推移する探査機の挙動をどうやって把握しているのか、というお話しをします。
あかつきに限らず日本の深宇宙探査機では、機体に固定された大型アンテナを使って地球との通信を行います。データや命令をやりとりする際には、機体そのものの姿勢を変えることでアンテナを地球に向けるわけです。ただ、クリティカル運用では、エンジンの噴射方向やカメラの視野などの条件から、そのような姿勢がとれない場合がほとんどです。つまりアンテナは地球指向から外れてしまうことになります。以前の記事で月着陸機「SLIM」をご紹介しましたが、ほぼリアルタイムで詳細なデータが届いたのは、月がきわめて近いからでした。金星と地球との距離はもっとも近づいたときでさえその100倍以上。片道の通信に数分~10数分以上かかる距離を隔てているため、とても月のようにはいきません。
そこでクリティカル運用時も最低限の情報はモニターできるよう、探査機は別に装備した無指向性のアンテナからビーコン電波を発信し続けます。 無指向性のため電波強度は低下するものの、ビーコン電波の周波数の変化から、情報を読み取ることができます。その情報とはご推察のとおり、ドップラー効果による「視線方向の速度」の変化です。
探査機が計画どおりの軌道をとる場合の周波数の変化は、事前の計算により求めることができます。グラフに描いたそれと、実際のビーコン電波の周波数の推移が重なっているかどうかで、順調かどうかが分かります。運用の現場ではこの手法は「探査機のドップラーを見る」などと短く呼ばれます。
ちなみにこの際、「受信側の速度変化」も考慮に入れた計算が必要です。地球上の受信局は、地球の自転と公転に伴って宇宙空間を移動しているため、受信局の緯度・経度や探査機の方角などにより、探査機との相対速度は変わり「視線方向の速度」も変化するからです。2010年の記者席での長い待機時間に、関係者からのレクチャーでこうした仕組みを知らされ、感嘆したのを覚えています。
さて、英語名称の”Venus Climate Orbiter”が示すとおり、あかつきは金星の気象を観測する探査機です。赤外線や紫外線の領域で5つの観測カメラを搭載していますが、さらに「自分では観測はしない観測機器」も積んでいます。それがUSO(Ultra-Stable Oscillator:ユー・エス・オー、またはウゾーと発音)です。無線技術に詳しい方には「宇宙用のOCXO」と呼んだほうがピンとくるかもしれません。これがどう役に立つのかを解説しましょう。
あかつきが金星の背後に入るときや出てくるとき、探査機からの電波は金星の大気をかすめるように通過します。このとき大気の温度分布によって電波が屈折します。この現象は、見えないはずの遠くの景色が見えてしまう「蜃気楼」や、道路に空が映る「逃げ水」と同じ原理で起こっています。
大きい屈折は光路長が伸びるのと同じなので、金星の背後に入るあかつきは地球から遠ざかるように見えます。逆に出てくるときには近づいて見えます。ここでドップラー効果と同等の周波数変化が生じるわけです。これらわずかな周波数変化を些細に読み取り解析することで、金星大気の高度による温度の変化(大気構造)を解き明かすこの手法は「電波掩蔽(えんぺい)観測」と呼ばれます。英語では“Radio Occultation”、怪奇現象のオカルトと同じ語源です。
一見トリッキーで新奇に見える電波掩蔽観測ですが、実は新しいものではありません。1960年代、 NASAによる惑星探査計画マリナー(1号~10号)やボイジャー1号・2号で、金星、火星、木星、土星の大気の構造や惑星の輪の研究に活用されたのが始まりです。
その後、GPSの登場により、地球大気が観測対象となります。受信局を山頂・航空機・低軌道衛星などに置き、大気をかすめて到達するGPS電波の変化からその構造を読み取る「GPS掩蔽観測」という手法と、それを基盤とする「GPS気象学」というジャンルが生まれることになりました。
原子時計を基準発振器とする”質の良い電波”を使えることがGPS掩蔽観測の大きなアドバンテージでした。惑星観測に比べれば観測機会もケタ違いに多く、気球観測などによる実測値で「答え合わせ」も可能です。これらを背景に、より詳細な観測を実現する「電波ホログラフィ法」と呼ばれる解析手法の開発も進みました。「直接波に加えマルチパス波も考慮した解析を行う手法」と解説されますが、「あかつき」では、その電波ホログラフィ法のうち”Full Spectral Inversion(FSI)”と呼ばれる解析手法が使われました。
JAXAで「あかつき」のプロジェクトサイエンティストを努めた今村剛氏(現・東京大学教授)はこう解説します。「電波ホログラフィ法では、10分以上にわたる、ひとつながりの位相の変化をまるごと扱います。その瞬間その瞬間のスナップショットの集積ではないところがミソで、観測データには位相の変化を含む多くの情報が含まれています。そのような周波数変化をもたらす大気の構造はどのようなものかを、いわば“逆算”することで従来手法より大幅に分解能を上げることができます」
これにより、なんと「垂直分解能100m、温度分解能0.1K(ケルビン)」という細かさで、金星の大気構造を解き明かすことができました。電波が届くのに何分もかかる数千万kmの距離を隔てていながら、高さ100mごとの0. 1度刻みの温度を測れるとは! 驚くほかありません。
もちろん、あかつきに搭載された「観測しない観測機器」であるUSOの性能がここに大きく関わっています。短期的な周波数ゆらぎは10E-12と、原子時計に迫る超高安定な発振器です。また受信側にも、水素メーザー周波数標準器を備えVLBI観測も行う大型アンテナ(JAXA臼田宇宙空間観測所の64mアンテナ)が使われました。ドップラー偏移という古典的な原理と、きわめて正確な時計(=周波数標準器)、そしてGPSで磨かれた解析手法で、遠く離れた惑星の大気構造を鮮明に描き出し、長年の謎とされてきた金星大気のスーパーローテーション(*)の解明などに大きな貢献をすることになりました。
(*)自転と逆方向に、自転の60倍の速度で全球を覆う風。上層で最大約100m/sに達する。
多くの科学成果につながる観測を行ってきた「あかつき」ですが、じつは2024年春から通信が途絶えたままとなっています(2024年11月現在)。もちろんとうに設計寿命は超えてはいますが、いっぽうで奇跡のリカバリを経た強運の探査機でもあります。今村教授も「復活の機会を窺っています。引き続き応援をいただければと思います」と語ります。夕暮れ時の西の空や夜明け前の東の空に、宵の明星/明けの明星として輝く金星を目にしたら、そこで周回する「あかつき」にも思いを馳せてみて下さい。
(参考資料)迫れ、あかつきの星!(4) 〜金星探査機「あかつき」の電波掩蔽は何をしてきたのか?〜
https://www.isas.jaxa.jp/feature/forefront/230926.html
1964年石川県生まれ。産業技術や先端技術・宇宙開発についての取材経験をもとに、子供からシニアまでを対象に難解なテーマを面白く解きほぐして伝えることに情熱を燃やす。宇宙航空研究開発機構機関誌「JAXA's」編集委員(2009-2014)。著書・共著書に『あなたにもミエル化? ~世間のなりたちを工学の視点から~』(幻冬舎mc)、『私たちの「はやぶさ」その時管制室で、彼らは何を思い、どう動いたか』(毎日新聞社)、『東京大学第二工学部70周年記念誌 工学の曙を支えた技術者達』(東京大学生産技術研究所)ほか。
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