本州の西南域に分布するニホンリスは、秋に木の実を隠して蓄え、春までの食糧にする「貯食」と呼ばれる行動をとります。このリスが好んで食べるオニグルミの種子に発信機をつけ、種子がどこに隠され、貯食され、あるいはネズミなどに横取りされたかを追跡しカウントしたところ、最大で168m離れた場所に隠され、最終的に約7%が食べられないまま発芽の機会を得たという報告があります。忘れっぽいリスが森の再生に貢献すると言われてはいましたが、それを数字で確かめた貴重な研究成果だと思います。
リスにとって冬を乗り切ることが重要なように、無線通信の世界でも秘匿性はきわめて重要です。そこで、特定の周波数に信号の送信電力を集中させるのではなく、幅広い周波数帯域に情報を分散させる「スペクトラム拡散」と呼ばれる手法が広く使われています。SNSにおける拡散は「広く一般に知られる」という意味を含みますが、ここで扱うのはバズりやバイラルとは真逆の「隠すための拡散」、数理操作としての拡散ですので、お間違えなきよう。
また、このスペクトラム拡散は、別名のCDMA(符号分割多元接続)のほうがよく知られていますので、以降それで話を進めます。
CDMAで鍵となるのはコードです。送信側では信号に拡散コードと呼ばれる符号を掛け合わせます。これにより信号は幅広い帯域に広がり(拡散)、ノイズと見分けがつかなくなることで、秘匿性も高まります。リスでいえば、落ち葉の下や木の洞に木の実を隠す行動に相当します。
受信側では同じ符号を用いて復号(逆拡散)し、ノイズから情報を浮かび上がらせます。CDMAにおけるコードは、リスにとっての「隠した場所の記憶」に相当するものです。しっかり覚えていれば、隠し場所に落ち葉が降り積もっても、木の実を取り戻すことができます。ときにそれを忘れてしまうのが、リスらしさなのかもしれませんが。
さてCDMAでは、ある通信チャネルから見ると、同じ周波数帯域を利用する他の通信チャネルの信号はノイズと区別がつきません。コードを使い分けることで多数のチャネル(ユーザー)が同じ帯域を共用できるというメリットも生まれます。これは、多くのリスが「それぞれの隠し場所の記憶」を持ちながら、同じ森で暮らしていることと似ているかもしれません。
すべてのGPS衛星は同じ周波数を共用していますが、それでいて混信なく衛星を見分けられるのは、衛星ごと(測位信号ごと)に固有の拡散コードを用いているからです。GPSではそのコードをPRNコードと呼んでいます。混信や干渉を回避できるよう数学理論に基づき生成された、それでいてランダムなノイズにしか見えないようなビット列です。コードがノイズの様なので符号化された信号もノイズにしか見えません。これにより、互いに干渉せず多数の衛星で同一帯域を共有することができています。
しかもCDMAには、正確な時間のモノサシに使えるという GPSにもってこいの特徴もあります。受信機側で復号のため用いるPRNコードはレプリカと呼ばれます。受信した信号にレプリカの位置(時刻)をピタリと重ねることで復号が行なわれますが、これはつまり、復号の時点で信号に刻まれた衛星の時刻と受信機の時刻の差が確定し、そこに光速を乗じて得られる衛星~受信機間の距離が判明する、ということになります。これが測位演算や時刻同期の出発点となることは言うまでもありません。
あらためてまとめるとCDMA方式は、1.ノイズに強く、2.同じ周波数帯に複数の信号が共存でき、3.厳密な時間の計測も可能となる、という際立った特徴を有する通信方式です。後の時代から振り返ってみれば、CDMAはまさにGPSのために考えられた通信方式にも思えてきます。それらの特徴を巨大なシステムの核に組み込んだ、GPS開発者たちの聡明さに敬服するばかりです。また、CDMAはその後の無線通信の進展を支える、現代社会における宝石のような技術の一つです。その最初の大規模な実用例がGPSだったことは、もっと知られてもいい事実ではないかと思います。
さて話は変わります。ご紹介するのは、ノイズに埋もれて届けられるGNSSからの情報を漏らさずキャッチする、デュアルバンド対応のマルチGNSS対応アンテナ「AU-500」と、シングルバンドの「AU-300」です。デュアルバンド対応の時刻同期用 GNSS受信モジュール「GT-100」のリリースに合わせて発表された新型アンテナです。
GNSS受信機におけるアンテナは、クルマというシステムにおいて、路面に接し力を伝える「タイヤ」と似た役割を担います。どんなに高性能なクルマもタイヤの性能を超えることはできません。タイヤの限界がシステムの限界を規定するからです。GNSS受信システムにおけるアンテナも、アナログな電波伝搬の世界とデジタル信号処理の世界の橋渡し役であり、アンテナが捕まえた以上の情報を受信機が導き出すことはできません。しっかり信号をキャッチする能力は、アンテナにとっては基礎体力に相当します。
「AU-500/300」では、LTE基地局に特化した帯域フィルタや、本体と一体化されたグランドプレーン(受信感度向上のため素子背面に設けた金属板)がこの基礎体力の向上に関わっています。では基礎体力の先には何があるのか?それは長期間にわたりトラブルなく安定稼働し続けるための基礎耐力、言い換えると耐環境性能です。
「AU-500/300」の開発では、地獄の責め苦を思わせる過酷で多様な試験が長期間にわたって続けられました。横殴りの豪雨まで想定した降雨試験や水没試験、波しぶきを想定した塩水試験、さらに煮沸試験まで行ったそうです。いったい何を想定しどんな必要があってアンテナを煮たのか、筆者には分かりません。
また腐食性ガスなど化学物質の曝露試験、プラスマイナス8000Vの静電気印加試験、落雷を想定したサージ試験、紫外線照射試験、輸送・設置時のトラブルを想定した振動・衝撃・落下試験も行われました。
さらに時間を要したのが熱衝撃試験だったそうです。「85℃からマイナス40℃に、5分以内で急冷し、ふたたび加熱」という熱サイクルを繰り返す試験です。熱膨張率の異なる素材が組み合わされた機器では、熱応力による破壊・破断の恐れがあります。何サイクルも繰り返されることで微小なクラックが徐々に進行していくケースも考えられます。開発プロセスでは、1サイクルごとに顕微鏡でクラックを精査し、1000サイクルを経ても問題が生じないことを確認したと言います。
「何パターンかの試作品の中にはクラックが生じた個体もあったため、200サイクルで十分な試験だが、念のため1000サイクルまで実施した。これらの試験を経ているので、いったん設置したら存在を忘れてもらえるレベルの耐久性が実現できた」と関係者は証言します。
キノコのようなアンテナの見た目は、着雪しにくい形状でかつグランドプレーンを一体化したことから生まれています。
森のキノコは木々のセルロースを分解して植物の再生につなげる役割を果たしますが、こちらのキノコは、大容量のデータが飛び交う情報の森を涵養するため、精確なタイミング情報の供給に重要な役割を果たします。街中で見かけたとき、思いを馳せていただければ幸いです。
1964年石川県生まれ。産業技術や先端技術・宇宙開発についての取材経験をもとに、子供からシニアまでを対象に難解なテーマを面白く解きほぐして伝えることに情熱を燃やす。宇宙航空研究開発機構機関誌「JAXA's」編集委員(2009-2014)。著書・共著書に『あなたにもミエル化? ~世間のなりたちを工学の視点から~』(幻冬舎mc)、『私たちの「はやぶさ」その時管制室で、彼らは何を思い、どう動いたか』(毎日新聞社)、『東京大学第二工学部70周年記念誌 工学の曙を支えた技術者達』(東京大学生産技術研究所)ほか。
※本文中で使用した登録商標は各権利者に帰属します。